『日本一やさしい天皇の講座』書評 

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天皇(すめらみこと)にみる真の保守の姿

 

『嘘だらけシリーズ』でおなじみの憲政史家、倉山満先生の著書にして『保守の心得』、『帝国憲法の真実』に続く“保守三部作”、堂々の完結編。
神武天皇以来の皇室の歴史を辿りながら、天皇の役割は「秩序を回復することにある」と喝破し、歴代天皇がいかに日本を“保守”してきたかを明らかにした一冊と言えます

 
■絶望の先の一筋の光
その切れ味鋭い語り口から絶大な人気を誇る倉山先生ですが、実はその著書の“あとがき”は暗澹たる思いを感じさせるものが多いです。
 
(以下参照) 

「我々は恥ずかしい時代を生きている。日本建国より初めて外国軍隊に占領され、その押し付けてきた憲法を押し戴いている。これを先祖と後世に恥じることが、自主独立の国になる第一歩である。」

(by帝国憲法物語)
 

「敗戦から七十年。実に空しい改憲論議を続けてきた。日本はいつまで敗戦国のままなのか!?戦後七十年がすぎたが、このままだと七百年、七千年たっても、日本は敗戦国のままだろう。」

(by『日本国憲法を改正できない8つの理由』)
 

「われわれ日本人は、人類全体に対する罪を自覚すべきだろう。われわれ大日本帝国は、世界史で最も模範的な文明国であった。しょせんはヨーロッパの公法にすぎなかったInternational Lawを、正しい意味での国際法とした。それにもかかわらず、世界大戦における愚かなふるまいにより、大国の地位から滑り落ちてしまった。それどころか、地球の地図に国名ではなく、単なる地名としてのみ残る小国に転落してしまった。」

(by『国際法で読み解く世界史の真実』)
 

「今の日本は、国名ではなく地名にすぎないのです。地政学でいう、アクターではなくシアターです。アクターには「主体」という意味もあります。では、我が国が主体を持つのはいつの日でしょうか。
予想をしていても、そんな日は永遠に来ないでしょう。」

(by『世界一わかりやすい地政学の本』より)
(参照終わり)
 
なぜか。
それは、俗に「保守」と呼ばれる人たちのあまりの不甲斐なさに絶望してきたからだそうです。
また、同時に今の日本政府の現状にも不甲斐なさを感じていたからに他なりません。
アメリカの持ち物にされるどころか、中国やロシア、あまつさえダブルコリアにすら小突き回される。軍事力を失い、政治もダメ、教育もダメ、唯一の取柄だった経済も停滞中。
「無いもの尽くしではないか」という倉山満先生の表現に首肯する人は少なくないのではないでしょうか。
 
そんな中にあって、日本に1つだけ残されていた希望がある、それこそが「天皇陛下」なのだと倉山先生は指摘されます。

 
■今上陛下のお姿にみる真の保守

「体制からはじき出され、石を投げられたとしても、日本国を愛しながら死んでいく。私はそこに真の意味での保守の姿をみる。
そもそも、今の日本国の体制と、日本国そのものは違う。このことを指摘した思想家が敗戦後どれほどいただろうか。」


これは、『この国を滅ぼさないための重要な結論』のあとがきで述べられている言葉です。
 
そもそもは”保守“を自称する言論人に向けて発せられた言葉であり、”右上とは何たるか“を指し示すために書かれたものです。
 
ですが、ここで述べられている“右上保守”の姿が今の今上陛下のお姿と重なって見えるのは気のせいでしょうか。
 
陛下ほど、悪口雑言を浴びせられた天皇がいたでしょうか。幼いころより外国かぶれと陰口を叩かれ、昭和時代は頼りないとの悪評、即位されてからは左翼の天皇呼ばわり。
 
それでも陛下は国民をお見捨てにならなかった。
 

『象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば』にもそれが凝縮されていますが、それだけではありません。
今上陛下の人生は「天皇の役目を果たす」こと、その一点にのみ捧げられてきたものであると言って過言ではありません。
 
確かに歴代天皇も多くの場面で、天皇としての役割(秩序を回復する)を果たしてこられましたが、今上陛下ほど、人生を賭してその役割に真摯に向き合い続けて下さった天皇も数少ないのではないでしょうか。
 
今上陛下がいかに国と国民に尽くすために、その人生を捧げてこられたのか、『日本人として知っておきたい皇室のこと』に詳しく描かれています。

 
本書『日本一やさしい天皇の講座』『日本人として知っておきたい皇室のこと』を併せて読むことで、陛下がいかに国民を大事に思っているのか、皇室の存在が日本にとって、国民にとって、いかに必要不可欠なものであるのかということを“心で感じる”ことが出来るのではないでしょうか。
 
二百年に一度の「譲位」という一大事に、真摯に向き合うためにも必読の書と言えます。
おススメです!


  

為参考:『日本人として知っておきたい皇室のこと』収録
「変質した政府との戦い」

■変質した政府との戦い

GHQによる「皇室」解体政策の悪影響は、戦後まもなく大学において顕著に現れるようなった。よく知られているように、六〇年安保から七〇年安保の時代に学園紛争が吹き荒れ、全国の大学は左翼全学連によって席巻された。大学は急激に左翼化し、「天皇制」を打倒し社会主義革命を夢見る勢力が台頭するようになった。
一方、政権与党の自民党はロッキード事件に代表される汚職によって世論の批判を受け、昭和四十九年七月の参議院選挙で敗北し、社会党と自民党の勢力が拮抗する保革伯仲時代が到来する。
  
並行して学生運動出身者たちがマスコミや政府、大学に入り込み、「保守の顔」をして政府を動かすようになる。その影響を受けて政府の左傾化が始まるが、象徴的なのは昭和五十二年七月二十三日、文部省は学校教育の基準である「小・中学校学習指導要領」を全面改訂した際、ゆとり教育を導入する一方で、教育内容を精選するという名目で、「天皇についての理解と敬愛の念を深める」などの字句を削除したことである。
恐らく教育課程の改悪を念頭に置かれてのことだろう。その年の十二月、陛下は次のようにお述べになり、浩宮陛下と共に歴代天皇の歴史を学ぶご意向を示されたのである。
  

これは皆で考えた問題ですけれども、天皇の歴史というものを、その事実というか、そういったものを知ることによって、自分自身の中に、皇族はどうあるべきかということが、次第に形作られてくるのではないかと期待しているわけであります。

(昭和五十二年、お誕生日前の記者会見)
 
心ある国民もまた、政府の「変質」を憂慮していた。皇室を支える仕組みを民間の手で立て直しすべきだという意見が続出し、昭和五十二年頃から元号法制化運動が起こるのである。「このままでは次の元号は制定されなくなってしまうが、それでいいのか」という訴えは広範な支持を獲得し、昭和五十三年に「元号法制化実現国民会議」(議長、石田和外元最高裁長官)が結成され、翌昭和五十四年六月六日、元号法が成立するのである。
危機感を抱いた社会党は、元号法を契機に皇室制度が再建されていくことを阻止すべく執拗に政府を追求した。なんとその追及に政府は屈してしまうのである。
 
昭和五十四年四月十七日、衆議院内閣委員会において社会党の上田卓三議員は「今回、この改元が元号法制化によって法律的に根拠づけられようとしているわけでありますが、改元の問題を皇位継承という一連の流れの一環として見た場合に、旧皇室典範に記されているような践祚、大嘗祭といった儀礼はどのような扱いになるのか」と質問した。
  
これに対して真田秀夫内閣法制局長官は「大嘗祭なんというのは恐らく国事行為としても無理なのじゃないかと思う」「憲法二十条第三項の規定がございますので、そういう神式のもとにおいて国が大嘗祭という儀式を行なうことは許されないというふうに考えております。」と回答した。
大嘗祭とは、皇位を継承するにあたって、その年の稲穂を神々にお供えし、国家の安泰と国民の安寧を祈念される最も重要な儀式である。こともあろうに内閣法制局長官がその儀式を「行うことは許されない」と断言したのである。
  
その二年後の昭和五十六年、皇后陛下は「戦後生まれの世代が国民の過半数を占める時代になりましたが、今後皇室の在り方は変わってゆくとお考えですか」という質問に、次のようにお答えになった。
  

時代の流れとともに、形の上ではいろいろな変化があるでしょうが、私は本質的には変わらないと思います。歴代の天皇方が、まずご自身のお心の清明ということを目指されて、また自然の大きな力や祖先のご加護を頼まれて、国民の幸福を願っていらしたと思います。
その伝統を踏まえる限り、どんな時代でも皇室の姿というものに変わりはないと思います。

(昭和五十六年、お誕生日前の記者会見)
  
いかに時代が変わろうとも、政府が社会党の追求に屈しようとも、宮中祭祀において「歴代の天皇方が、まずご自身の清明ということを目指されて、また自然の大きな力や祖先のご加護を頼まれて、国民の幸福を願っていらした」伝統を踏まえていくとのご決意を、皇后陛下は明確に示されたのである。
 

■戦後憲法下での「大嘗祭」
しかし、政府による「皇室の伝統」軽視の傾向は止まらず、宮内庁は昭和五十七年、ご高齢を理由に昭和天皇がお出ましの祭祀を四つ(春季・秋季皇霊祭、神嘗祭、新嘗祭)に制限してしまう。一連の政府の対応を受けて天皇陛下は、昭和六十一年五月二十六日付「読売新聞」に掲載された文書回答で次のようにお述べになった。
  

天皇が国民の象徴であるというあり方が、理想的だと思います。天皇は政治を動かす立場
にはなく、伝統的に国民と苦楽をともにするという精神的立場に立っています。このこと
は、疫病の流行や飢饉に当たって、民生の安定を祈念する嵯峨天皇以来の天皇の写経の精神
や、また、「朕、民の父母と為りて徳覆うこと能わず。甚だ自ら痛む」という後奈良天皇の写経の奥書によっても表されていると思います。


  
ここで注目しなければならないことは、「後奈良天皇」について言及されていることだ。一四六七年に起こった応仁の乱を契機に室町幕府は衰え、戦国武将による群雄割拠の時代が始まる。それは同時に、皇室を支える経済体制の弱体化も意味した。
一五二六年に三十一歳で皇位を継承された後奈良天皇は一五三六年、践祚後十年目にして戦国大名の寄進で即位式をようやく実施できたが、費用のかかる大嘗祭を同時に行うことはできなかった。当時の文献によれば、皇居の土堀は崩れ、庶民らは三条大橋の上から内侍所(現在の皇居・賢所)の燈火が見えたほど困窮は甚だしかったという。
 それだけに一五四〇年から四五年にかけて疫病が蔓延した際には何もできないご自分を責められ、御自ら「般若心経」を書写されて全国二五箇所の一宮に奉納された。そして、一五五七年、大嘗祭を挙行されないまま、後奈良天皇は崩御されてしまう。
  
このように苦労された後奈良天皇について言及された背景には、畏れ多いことながら、ご自分も後奈良天皇のように政府の支援を得られず大嘗祭を挙行できないかも知れないが、それでも国民の安寧を祈り続けていくという悲壮なるご覚悟があられたのではないか、と思わざるを得ない。何しろ内閣法制局長官が「国が大嘗祭という儀式を行なうことは許されない」と明言していた時である。
  
昭和六十二年九月二十二日、昭和天皇は腸通過障害で手術をされ、念願であった沖縄ご訪問は中止となった。翌六十三年九月十九日、昭和天皇は再びご不例となり、昭和六十四年一月七日、ついに崩御された。
直ちに皇位を継承された陛下がまず直面されたのは、占領政策に屈し、皇室の伝統を歪めようとする政府であった。政府は、昭和天皇のご葬儀を行うにあたって憲法の政教分離条項がある以上、皇室の伝統を歪めることもやむなしという判断を下そうとしていたのである。
  
危機感を抱いた「日本を守る国民会議」の黛敏郎運営委員長らが一月二十四日、竹下首相と会見し、ご葬儀は皇室の伝統に基づいて行われるように強く要望した。最終的に皇室行事の「葬場殿の儀」において当初予定されていなかった鳥居と大真榊が設置されることとなったものの、国家行事の「大喪の礼」において鳥居は撤去されるという事態になった。
この間、憲法によって国政に関する発言権を奪われた陛下は父君・昭和天皇のご葬儀であるにもかかわらず、何ら発言することができなかった。
  
 昭和天皇のご葬儀と並行して大嘗祭のあり方についても、憲法の政教分離条項との関連で議論になった。「即位の礼準備委員会」を設立し、現行憲法下での皇位継承儀礼について検討を進める政府に対して、神道政治連盟など民間有志による「大嘗祭の伝統を守る国民委員会」が約六〇〇万名の嘆願署名を集め、「即位の礼、大嘗祭が国家の儀式として伝統に則り斎行される」よう要望した。
  
 この要望を踏まえ十二月二十一日、政府の「即位の礼準備委員会」は、大嘗祭について「宗教上の儀式としての性格を有すると見られることは否定できない」としながら「皇位の世襲制をとる憲法下では国も深い関心を持たざるを得ない」とその公的性格を認めた。政府は、皇室の伝統に基づいて「公的行事」として大嘗祭を挙行することを決定したのである。
  
 戦後憲法体制下において多くの制約を課せられたものの、皇室の伝統を継承できたことがいかに大きなことであったのか。天皇陛下は「(平成の十九年間を)振り返ってみて、今まで直面した最も厳しい挑戦や期待はどのようなものでしたか」という質問に対して、次のようにお答えになっている。
  

振り返ると、即位の時期が最も厳しい時期であったかと思います。日本国憲法の下で行われた初めての即位にかかわる諸行事で、様々な議論が行われました。即位の礼は、皇居で各国元首を始めとする多くの賓客の参列の下に行われ、大嘗祭も皇居の東御苑で滞りなく行われました。これらの諸行事に携わった多くの人々に深く感謝しています。

(平成十九年、欧州ご訪問前の記者会見)
  
即位の礼・大嘗祭を行うことができた喜びがこのご発言から窺われるが、それは、誠に申し訳ないことながら、それだけ戦後憲法体制と、そのもとで変質した政府によって「厳しい時期」を強いられてきたということでもあると言えよう。
  

■皇室の伝統を踏まえた憲法解釈
平成の御代に入ると、皇室の伝統を重んじられる陛下の御心を無視するかのようにマスコミは「開かれた皇室」論をしきりに喧伝し、昭和天皇との断絶を強調するようになった。とくに天皇陛下が平成元年一月九日の「即位後朝見の儀」でのお言葉の中に「日本国憲法を守り」という一節があったことから、『朝日新聞』などが、平成の天皇は「護憲」であり、「改憲派は天皇陛下のご意志に背いて改憲を進めるのか」という論調で記事を書き始めた。
  
この「護憲天皇」という主張に過敏に反応して今度は保守系の一部からも「いまの天皇陛下は護憲で、リベラルだ」といった批判が出て来るようになった。
現行憲法の規定を読めば分かるように、天皇の立場で憲法を批判するわけにはいかない。
さりとて何もおっしゃらなければ社会党のような意味での「護憲」論者とみなされかねない難しい立場に追い込まれてしまったのである。
 
追い討ちをかけたのは、『朝日新聞』をはじめとするマスコミだった。お誕生日前に行われる記者会見において記者たちは、「昭和の時代と比べて天皇としての活動のあり方も変わってきたようにお見受け致しますが、ご自身では、どんな点をどのような思いから変えてきたとお考えでしょうか。さらに今後、国民の期待をどう受け止め、どのような形でこたえていきたいとお考えでしょうか」といった質問を毎年のように繰り返した。そこには、「平成の天皇陛下は、昭和天皇のスタイルを変えようとする伝統軽視の護憲リベラルだ」というレッテルを張ろうという悪意が透けてみえる。
 
陛下はこうした質問に対してあくまでも誠実に、しかし妙な言質をとられることのないように慎重な言い回しでお答えになっている。
 

日本国憲法で、天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であると規定されています。この規定と、国民の幸せを常に願っていた天皇の歴史に思いを致し、国と国民のために尽くすことが天皇の務めであると思っています。天皇の活動の在り方は、時代とともに急激に変わるものではありませんが、時代とともに変わっていく部分もあることは事実です。
私は、昭和天皇のお気持ちを引き継ぎ、国と社会の要請、国民の期待にこたえ、国民と心を共にするよう努めつつ、天皇の務めを果たしていきたいと考えています。

(平成十年、お誕生日前の記者会見)
 
このご回答を丁寧に拝読すると、現行憲法には「日本国民統合の象徴」としか書かれていないが、その意味を長い「天皇の歴史」を念頭に置いて解釈した場合、「国と国民のために尽くすことが天皇の務め」であり、「昭和天皇のお気持ちを引き継」ぐことにもなるとおっしゃられていることが判る。
つまり、現行憲法を正面から批判するのではなく、「国民の幸せを常に願っていた天皇の歴史」に基づいて憲法の「象徴」規定を解釈することで、「象徴」たる天皇の務めとは「国民の幸せを常に願っていた天皇の歴史に思いを致し、国と国民のために尽くすこと」だという皇室像を打ち出されている。
「現行憲法を守るならば、戦前の歴史を否定し、昭和天皇と異なる『開かれた皇室』を目指すべきだ」というマスコミの追求に対して、「象徴」規定に基づいて皇室の伝統を守る憲法解釈を示されたのである。
   
陛下は昭和五十年代に自ら望まれて、最高裁の田中二郎元判事から憲法の運用・解釈について学んでいらっしゃる。田中元判事は昭和二十一年から二十二年にかけて教育基本法を制定した際、GHQと交渉した経験を持つ専門家だ。「皇室解体」というGHQの意図が込められた戦後憲法体制下で、皇室の伝統を受け継ぐという「困難な道」を天皇として歩まなければならない―そのご決意を貫くため、陛下は周到な準備をされていたことを、田中元判事との勉強会は物語っているのではないだろうか。

 

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